CSH年表②|初期の水和観察史:顕微鏡が捉えた「ゲル」の正体(〜1900)

セメントと水を混ぜると、すぐには固まらないのに、しばらくしてから急に硬くなる――この「待ち時間」と「一斉に進む固化」は、19世紀の研究者たちにとって最大の謎でした。彼らが頼ったのは、当時ようやく実用化が進んだ偏光顕微鏡と薄片観察の技術です。レンズ越しに見えてきたのは、針のように伸びる結晶と、その周りを包む半透明の“にじみ”。彼らはそれをゲルと呼び、のちにCSH(カルシウムシリケート水和物)と呼ばれる主生成物の影を確かに捉えていました。本稿では、1900年頃までの「見えたもの/そう見えた理由」を、一般向け7割・研究者向け3割のバランスでたどります。


1. レンズが運んだ革命:薄片の中に現れた世界

石材や鉱物を薄くスライスし、透過光や偏光で観察する岩石顕微鏡学がセメントにも応用されると、硬化体の中で育つ微小な結晶群がはっきり見えるようになりました。粉が水を吸って乾くだけではない。溶けて、移動して、別の場所で生まれ直す――そんな反応の痕跡が、視覚的に確認できたのです。さらに、焼成で得られるクリンカーの相(今日で言うアルライト=C₃S、ベライト=C₂Sなど)も顕微鏡で識別され、原料―焼成―水和という連続した物語が描けるようになりました。これにより、「そもそもセメントの中にどんな“種”があるのか」が先に定義され、水和観察の解像度が一気に上がります。


2. 「結晶説」と「コロイド(ゲル)説」――対立から統合へ

19世紀末の議論を一言でまとめると、結晶が主役か、ゲルが主役かという見方の相違でした。ある学派は、硬化は溶液が過飽和になって結晶が析出する現象だと説明しました。顕微鏡で見えるのは、六角板状の結晶や針状の結晶の群れ。強度はそれらがからみ合って生まれる、と考えたのです。一方で別の学派は、結晶の“隙間”を埋めるコロイド状の“水の多い固体”=ハイドロゲルに目を向けました。結晶だけでは説明できない、にじむような充填と連続性の源を、ゲルに求めたのです。

現代の理解から振り返ると、両者は同じ現象の別アングルを見ていました。すなわち、水に溶け出したカルシウムとケイ酸の種が局所的に過飽和となり、結晶性の水酸化カルシウム(ポルトランダイト)や低秩序のカルシウムシリケート水和物(CSH)が析出する。そのときCSHは明瞭な結晶というよりナノ粒子の群れとして育つため、視野によっては“ゲル”のように見える――こうした統合的な像が、のちに整っていきます。


3. 顕微鏡が見せた「針」と「にじみ」

当時の研究者がしばしばスケッチしたのは、針状に伸びる結晶と、その周囲を取り巻く半透明の帯でした。針状の多くは、初期に急成長する水酸化カルシウムや、条件によってはアルミネート系の針状物が含まれていたと考えられます。対して半透明の帯は、いわば**“若い”CSHのゆりかごでした。そこではナノメートルサイズの粒子が密に集まっては離れ、ゆっくりと骨格(ネットワーク)を作ります。顕微鏡で連続体のように見えた“にじみ”は、粒子の寄せ集めが光を散らすために生じた見かけの連続性**でもあります。

この見え方には標本作製も影響します。強い乾燥やエタノール置換は、CSH粒子の間にあるゲル水を抜き、微小な収縮や割れを誘発します。すると“にじみ”が膜状に強調されたり、逆に細孔として強調されたりする。19世紀の技術では避けがたいアーティファクトが、ゲルか結晶かの印象をさらに揺らしました。しかし、揺らぎを含んだ観察記録であっても、CSHが空隙を橋渡しして強度の核になるという本質は、確実に読み取られていたのです。


4. 「待ち時間」の謎に踏み込む

混ぜてすぐには固まらず、誘導期(休止期)を経て発熱とともに一気に固化が進む――この時間的ふるまいを、当時の観察はどう説明したでしょうか。結晶説の立場では、最初に溶解が起こり、溶液がゆっくりと過飽和に向かう準備の時間が必要だと考えました。やがて核が生まれると、結晶やCSHの析出が加速し、見える景色が一気に変わる。ゲル説の立場では、粒子が水を抱え込んだネットワークを作り、その乾き(脱水・再配列)が進むことで剛性が立ち上がる、と描きました。現代的に言えば、溶解―成長の反応速度論ナノ粒子ネットワークの物理が、同時に誘導期の長さや立ち上がりの鋭さを決めている、とまとめられます。


5. いま読む「初期論文」の面白さ

当時の論文やモノグラフを現代の目で読み直すと、正しいが言葉が足りない記述にたびたび出会います。たとえば、針状結晶だけでは説明しきれない連続的な剛性の立ち上がりを、彼らはゲルという直感的な言葉で包みました。今日であれば、CSHナノ粒子の凝集・密度化(densification)溶液中のCa/Siの時間変化析出サイトの自己増殖などの語彙で書けるところです。逆に言えば、私たちがいま使う専門用語の多くは、当時のスケッチの一枚から延びているのです。


6. 学び始めの人へのガイド

顕微鏡写真やスケッチを見るときは、①試料がどんな前処理を受けているか、②見えているのが結晶か、連続体に見える微粒子群か、③その景色が時間のどの瞬間を切り取っているか――この三点を意識して読み解いてください。たとえば、初期の針状物は**“固化の合図”ではあっても、最終強度の主役ではありません。主役はやはり、周囲で静かに育つCSHネットワーク**です。写真の“派手さ”に惑わされず、結晶とゲルの共演として捉えることが、理解の近道になります。


7. 研究の入口に立つ人へ(少し専門寄り)

もし自分で初期水和を追うなら、試料の脱水アーティファクトを最小化する準備が第一です。低温樹脂包埋や穏やかな溶媒置換を検討し、観察スケールを変えて同じ部位を追跡すると、結晶とゲルの相補的な増殖が見えてきます。時間分解能が足りなければカロリメトリーXRDと併せ、誘導期の境目に核形成が立ち上がる確かな証拠を重ねていく。19世紀のレンズではぼやけていた現象が、今日では反応速度論ナノ構造解析の両輪で精密に描けます。けれども、その最初の一歩は――やはり顕微鏡の視野の中にあります。


結び

19世紀の観察者がレンズ越しに見た「針」と「にじみ」は、のちにCSHと呼ばれる主役の、いわば胎動でした。結晶説とゲル説の往復運動を経て、私たちは溶解―析出ナノ粒子ネットワークの形成という二つの柱で、初期水和を説明できるようになりました。彼らのスケッチをもう一度覗き込むと、現代の語彙で語り直すべきヒントが、驚くほど鮮やかに残っています。

次回予告(#3):ポルトランドセメント誕生前夜――原料と焼成の基礎をたどり、なぜ「反応しやすいクリンカー」が生まれるのかを整理します。


参考文献

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