はじめに:セメントペーストの中の小宇宙
前回の記事では、セメントの水和反応によって生成されるCSH(ケイ酸カルシウム水和物)について詳しく解説しました。しかし、セメントと水が反応して生まれる物質はCSHだけではありません。実は、セメントペーストの中では、まるで小さな宇宙のように、様々な鉱物が生成し、変化し、時には消滅していく、ダイナミックな化学変化が起こっているのです。
セメントが水と反応すると、CSH以外にも、エトリンガイト、モノサルフェート、ポートランダイト、ストラトリンガイトなど、多様な水和物が形成されます。これらの水和物は、それぞれ異なる結晶構造と化学組成を持ち、コンクリートの強度、耐久性、体積安定性などに大きな影響を与えます。
特に興味深いのは、これらの水和物が固定的な存在ではなく、環境条件(温度、湿度、pH、イオン濃度など)によって相互に変化し合うことです。この動的な変化のメカニズムを理解することは、より耐久性の高いコンクリートを開発する上で極めて重要です。
ポートランダイト:セメント化学の主役の一人
水酸化カルシウムの形成と役割
ポートランダイト(Ca(OH)₂)は、セメント水和物の中で2番目に多い相で、水和セメントペーストの体積の約15~25%を占めます。C3SやC2Sの水和反応により生成されます:
2C3S + 6H → C3S2H3 + 3Ca(OH)₂ 2C2S + 4H → C3S2H3 + Ca(OH)₂
ポートランダイトは六角板状の結晶として成長し、電子顕微鏡で観察すると、まるで雪の結晶のような美しい六角形の板が重なり合った構造をしています。結晶のサイズは数マイクロメートルから数十マイクロメートルに達することもあります。
ポートランダイトの重要な機能
ポートランダイトは、単なる副産物ではなく、コンクリートの健全性を保つ上で極めて重要な役割を果たしています。最も重要な機能は、pH緩衝作用です。ポートランダイトの存在により、セメントペースト中の間隙水のpHは12.5~13という高アルカリ性に保たれます。この高いpHは、鉄筋表面に不動態皮膜と呼ばれる保護層を形成・維持し、鉄筋の腐食を防ぎます。もしポートランダイトが失われてpHが低下すると、不動態皮膜が破壊され、鉄筋腐食が始まってしまいます。
大気中のCO2との反応も、ポートランダイトの重要な性質です。Ca(OH)₂ + CO2 → CaCO3 + H2O という反応により、炭酸カルシウムが生成されます。この炭酸化反応は二面性を持っています。表面近傍では炭酸カルシウムが細孔を充填し、緻密化による強度向上と透気性・透水性の低下をもたらします。しかし一方で、炭酸化の進行はpHの低下を意味し、鉄筋腐食のリスクを高めます。このバランスをどう制御するかが、コンクリート構造物の長期耐久性を左右する重要な要因となっています。
さらに、ポートランダイトはポゾラン反応の反応物としても機能します。フライアッシュやシリカフュームなどのポゾラン材料は、それ自体では水硬性を持ちませんが、ポートランダイトと反応することで追加のCSHを生成します。この反応により、長期強度の向上と細孔構造の改善が達成されます。つまり、ポートランダイトは短期的には鉄筋を保護し、長期的にはより強固な構造へと変換される、時間軸で役割が変化する興味深い物質なのです。
エトリンガイト:針状結晶の形成と変化
エトリンガイトの構造と形成
エトリンガイト(3CaO・Al2O3・3CaSO4・32H2O、略してC6AS̄3H32)は、AFt(Alumina Ferrite tri-substituted)相の代表的な鉱物です。その化学式が示すように、32個もの水分子を含む、非常に水分含有量の高い鉱物です。
エトリンガイトは六方晶系の結晶構造を持ち、カルシウム-アルミニウム-水酸化物の柱状構造[Ca3[Al(OH)6・12H2O]3+]がc軸に平行に配列し、その間のチャンネルに硫酸イオンと水分子が存在する構造をしています。
電子顕微鏡で観察すると、エトリンガイトは長さ数マイクロメートル、太さ0.1~0.5マイクロメートルの針状結晶として現れます。これらの針状結晶が絡み合うことで、セメントペーストの初期強度発現に寄与します。
一次エトリンガイトと二次エトリンガイト
エトリンガイトには、形成時期により性質が大きく異なる二つのタイプが存在します。
一次エトリンガイト(初期エトリンガイト)は、セメントと水を混合してから数時間以内に形成される「善玉」エトリンガイトです。C3Aと石膏が反応して生成され、C3Aの急速な水和を制御してセメントの瞬結を防ぐという重要な役割を果たします。最初の2時間でエトリンガイトの析出が支配的な反応となり、セメントペーストの流動性の低下と密接に関連していることが最新の研究で明らかになっています。この段階でのエトリンガイト形成は、まだセメントペーストが塑性状態にあるため、膨張による害はありません。
一方、二次エトリンガイト(遅延エトリンガイト)は、硬化後のコンクリートで形成される「悪玉」エトリンガイトです。特に問題となるのは、高温養生(65℃以上)を経験したコンクリートで発生する遅延エトリンガイト形成(DEF)です。高温により一度分解したエトリンガイトが、常温に戻った際に硬化体内で再形成されます。硬化したコンクリートは変形能力が限られているため、この時期のエトリンガイト形成は膨張によるひび割れを引き起こし、構造物に深刻な損傷を与える可能性があります。
AFm相:層状構造を持つ水和物群
AFm相の基本構造
AFm(Alumina Ferrite mono-substituted)相は、層状複水酸化物(LDH:Layered Double Hydroxide)ファミリーに属し、正に帯電した主層と、層間に水分子と電荷バランスをとるアニオンを持つ構造です。
AFm相の一般式は[Ca2(Al,Fe)(OH)6]・X・nH2Oで表され、Xは交換可能な陰イオン(SO4²⁻、CO3²⁻、OH⁻、Cl⁻など)を表します。この陰イオンの種類により、様々なAFm相が存在します。
主要なAFm相の種類と特徴
AFm相には、層間に取り込まれる陰イオンの種類により、様々なバリエーションが存在します。最も一般的なのは、硫酸イオンを層間に持つモノサルフェート(C4AS̄H12)です。石膏がすべて消費された後、エトリンガイトとC3Aの反応により形成されます。化学式で表すと、一つのエトリンガイト分子と二つのC3A分子から三つのモノサルフェート分子が生成される、まるで化学のパズルのような反応です。モノサルフェートは相対湿度により異なる水和状態を示し、この水分含有量の変化が体積変化と密接に関連しています。
炭酸イオンを層間に持つモノカーボアルミネート(C4AC̄H11)は、石灰石微粉末を含む現代のセメントで頻繁に観察される水和物です。興味深いことに、炭酸イオンは硫酸イオンよりも優先的にAFm構造に取り込まれる傾向があります。そのため、炭酸塩が存在すると、既に形成されていたモノサルフェートから硫酸イオンが追い出され、モノカーボアルミネートに変換されることがあります。この過程で放出された硫酸イオンは、追加のエトリンガイトを形成するため、結果的に強度向上に寄与します。
ヘミカーボアルミネート(C4AC̄0.5H12)は、炭酸イオンと水酸化物イオンの両方を層間に持つ、いわば「ハーフ&ハーフ」のAFm相です。モノカーボアルミネートよりも不安定で、多くの場合、過渡的な相として短期間だけ存在します。セメントの水和初期に一時的に形成され、その後、より安定なモノカーボアルミネートやモノサルフェートに変換されていきます。
硫酸塩や炭酸塩が不足している環境では、水酸化物イオンのみを層間に持つハイドロキシAFm(C4AH13)が形成されます。この相は、純粋なセメント-水系や、混和材を大量に使用して硫酸塩が希釈された系で観察されます。ハイドロキシAFmは、他のAFm相と比較して水に対する溶解度が高く、長期的には他のより安定な相に変換される傾向があります。
AFm相の水和状態の変化
AFm相の興味深い特性の一つは、環境の相対湿度に応じて水分含有量を変化させることです。最新の研究により、この変化が段階的に起こることが明らかになっています。
例えば、モノサルフェートは湿度により劇的に変化します。相対湿度が80%以上の高湿度環境では、12個の水分子を含むC4AS̄H12として存在します。しかし、湿度が30~80%の中程度の環境では、水分子の一部が失われてC4AS̄H10.5(10.5水和物)となり、さらに30%以下の低湿度では、C4AS̄H9(9水和物)まで脱水します。
この水和状態の変化は、単なる水分の出入りではなく、結晶構造の変化を伴います。水分子が層間から脱離すると層間距離が縮まり、全体の体積が減少します。逆に、乾燥したAFm相が湿潤環境に置かれると、水分子を吸収して膨張します。この可逆的な体積変化は、コンクリートの乾燥収縮や湿潤膨張の一因となっており、構造物の耐久性に影響を与える重要な現象です。
ストラトリンガイト:ケイ酸を含む特殊なAFm相
ストラトリンガイトの構造と形成条件
ストラトリンガイト(C2ASH8、2CaO・Al2O3・SiO2・8H2O)は、ゲーレナイト水和物とも呼ばれ、スラグ、メタカオリン、フライアッシュを混合したセメントや、高アルミナセメントの水和生成物として現れる特殊なAFm相です。
ストラトリンガイトは他のAFm相と同じ主層構造を持ちますが、層間にアルミノケイ酸アニオン[(T,□)4(OH,O)8]⁻(Tはケイ素またはアルミニウム、□は空孔)を含む複雑な構造をしています。
ストラトリンガイトの安定性と相互作用
ストラトリンガイトは20~85℃の温度範囲で、石膏、エトリンガイト、方解石などの硫酸塩・炭酸塩相と共存できることが示されています。しかし、ポートランダイトの存在下では分解し、90±5℃以上では徐々にハイドロガーネット固溶体へと分解します。
ストラトリンガイトの形成は、セメント系材料の耐久性向上に寄与する可能性があります:
- アルミノケイ酸塩を多く含む混和材を使用した場合の安定相として
- CSHおよびハイドロガーネット固溶体と適切な温度で共存可能
- 硫酸塩や炭酸塩の取り込みが起こりにくく、構造的に安定
エトリンガイトからモノサルフェートへの変換
相変換のメカニズム
セメントの水和が進行すると、水和物の世界では主役の交代劇が起こります。初期段階では、C3Aと石膏の反応によりエトリンガイト(AFt)が急速に形成されます。この反応は、C3Aの激しい水和反応を制御する重要な役割を果たしています。しかし、石膏がすべて消費されると、状況は一変します。硫酸イオンの供給が途絶えたエトリンガイトは、まだ未反応のC3Aと反応し、モノサルフェート(AFm)へと変換され始めるのです。
この変換の鍵を握るのは、利用可能なアルミナと硫酸塩の比率です。SO3/Al2O3比が高い環境では、エトリンガイトが安定に存在し続けます。逆に、この比率が低くなると、モノサルフェートが優勢となります。そして、中間的な比率では、両相が共存する複雑な系となります。まるで化学平衡の教科書のような現象が、コンクリートの中で起こっているのです。
炭酸塩が引き起こす相平衡の変化
石灰石微粉末を含む現代のセメントでは、さらに複雑な相変化が起こります。炭酸イオンは、硫酸イオンよりも強力にAFm相の層間に入り込もうとする性質があります。その結果、既に形成されていたモノサルフェートから硫酸イオンが追い出され、モノカーボアルミネートが形成されます。
追い出された硫酸イオンは行き場を失うわけではありません。これらは残存するC3Aと反応して、追加のエトリンガイトを形成します。結果として、エトリンガイトとモノカーボアルミネートが共存する系が成立します。この現象は「シナジー効果」と呼ばれ、石灰石微粉末を使用したセメントで初期強度が向上する主要なメカニズムの一つとなっています。セメント量を減らしながらも性能を維持できるこの技術は、CO2排出量削減の観点からも重要な意味を持っています。
水和物の劣化反応:硫酸塩劣化のメカニズム
外部からの侵略者:硫酸塩劣化の脅威
コンクリート構造物が硫酸塩を含む地下水や海水に長期間さらされると、外部硫酸塩劣化(ESA)と呼ばれる深刻な劣化現象が発生します。この現象は、まるで外敵がコンクリートの内部に侵入し、内側から破壊していくような過程です。
硫酸イオンがコンクリート内部に浸透すると、まずポートランダイトと反応して石膏(CaSO4・2H2O)を形成します。この反応自体も体積膨張を伴いますが、より深刻なのは次の段階です。生成された石膏が、安定していたモノサルフェートと反応し、針状のエトリンガイトへと変換されます。この変換により約55%という劇的な体積増加が生じ、コンクリート内部に巨大な膨張圧が発生します。
さらに恐ろしいのは、特定の条件下で発生するタウマサイト型硫酸塩劣化(TSA)です。低温環境(5℃以下)で炭酸塩が存在すると、コンクリートの強度の源であるCSHまでもが攻撃を受け、タウマサイト(CaSiO3・CaCO3・CaSO4・15H2O)という物質に変換されます。タウマサイトは機械的強度をほとんど持たないため、この劣化が進行したコンクリートは、まるで土のようにもろくなり、素手でも崩すことができるほどに劣化してしまいます。
内なる時限爆弾:遅延エトリンガイト形成
遅延エトリンガイト形成(DEF)は、コンクリート内部に潜む時限爆弾のような現象です。プレキャスト部材の蒸気養生や、マスコンクリートの水和熱により65℃以上の高温を経験したコンクリートで発生します。
高温養生中、本来形成されるはずの一次エトリンガイトは熱力学的に不安定となり、分解してしまいます。分解により放出された硫酸イオンは、CSHの表面に吸着されたり、間隙水中に溶解したりして、一時的に「隠れた」状態となります。その後、コンクリートが常温に戻ると、これらの硫酸イオンが再び放出され、硬化したコンクリート内部でエトリンガイトが再形成されます。
問題は、この二次エトリンガイトが均一に分布せず、局所的に集中して形成されることです。硬化したコンクリートは変形能力が低いため、局所的な膨張により内部応力が発生し、最終的にはひび割れへと発展します。特に厄介なのは、この劣化が外観からは判断しにくく、数年から十数年後に突然症状が現れることです。
ハイドロガーネット:高温での安定相
ガーネット構造を持つ特殊な水和物
ハイドロガーネット(C3AH6やC3ASxH6-2x)は、宝石のガーネットと同じ立方晶系の結晶構造を持つ、特殊なセメント水和物です。通常の常温養生では少量しか形成されませんが、50℃以上の高温環境や、高アルミナセメントの水和では主要な生成物となります。
ハイドロガーネットの最大の特徴は、その高い密度と小さな体積です。例えば、高アルミナセメントの初期水和物であるCAH10やC2AH8と比較すると、同じ量の原料から生成されるハイドロガーネットの体積は約半分しかありません。また、熱力学的に非常に安定で、一度形成されると他の水和物に変化しにくい性質を持っています。興味深いことに、ケイ素が固溶することも可能で、C3AS0.84H4.32のような複雑な組成を取ることもあります。
高アルミナセメントの変換問題
高アルミナセメント(CAC)は、急速硬化と高い初期強度が特徴ですが、「変換」と呼ばれる特有の問題を抱えています。CACの初期水和物であるCAH10とC2AH8は準安定相で、時間の経過とともに安定なハイドロガーネット(C3AH6)へと変換されます。この反応は常温でも徐々に進行し、温度が高いほど加速されます。
変換反応により体積が約50%も減少するため、空隙率が増加し、結果として強度が大幅に低下します。1970年代にイギリスで高アルミナセメントを使用した建物の屋根が崩落する事故が相次ぎ、大きな社会問題となりました。この教訓から、現在では高アルミナセメントの構造用途での使用は厳しく制限されています。
水和物間の複雑な相互作用
温度が支配する水和物の運命
セメント水和物の世界では、温度がまるで指揮者のように、各水和物の生成と消滅を制御しています。常温(0~25℃)では、AFm相、特にモノサルフェートやモノカーボアルミネートが安定に存在します。これらの層状化合物は、適度な温度で最も安定な構造を形成し、セメントペーストの微細構造を支えています。
しかし、温度が25~50℃に上昇すると、状況は一変します。エトリンガイトとAFm相が共存する複雑な系となり、両者の間で硫酸イオンの奪い合いが起こります。さらに50℃を超えると、ハイドロガーネットの形成が促進され、通常は少量しか存在しないこの立方晶の水和物が主要な相となることもあります。そして70℃以上になると、エトリンガイトは熱力学的に不安定となり、分解を始めます。これが、高温養生を経験したコンクリートで遅延エトリンガイト形成(DEF)が問題となる理由です。
pHが決める化学平衡
セメントペースト中の間隙水のpHは、水和物の安定性にとって決定的な要因です。pH12.5以上の強アルカリ環境では、ポートランダイト、CSH、エトリンガイトが安定に共存します。これが通常のコンクリートの状態で、鉄筋の腐食を防ぐ保護的な環境が維持されています。
pHが10.5~12.5の範囲に低下すると、CSHの性質が変化し始めます。Ca/Si比が低下し、より重合度の高いケイ酸構造が形成されます。同時に、エトリンガイトの形成が抑制され、代わりにアルミニウムを含むゲル状物質が生成されやすくなります。さらにpHが10.5以下まで低下すると、CSH自体が不安定となり、分解が始まります。これは酸性雨や工業廃水によるコンクリートの劣化メカニズムの一つです。
イオンたちの複雑な相互作用
間隙水中に存在する様々なイオンは、水和物の形成と安定性に複雑な影響を与えます。アルカリイオン(ナトリウムやカリウム)は、エトリンガイトとモノサルフェートの溶解度を増加させる一方で、CSHのCa/Si比を低下させます。これらのイオンは同時にpHを上昇させるため、全体的な影響は非常に複雑です。
塩化物イオンは海水や凍結防止剤から供給されますが、興味深いことに、フリーデル氏塩(C3A・CaCl2・10H2O)というAFm型の水和物を形成します。この反応により塩化物イオンが固定されるため、鉄筋腐食のリスクが低減されます。さらに、塩化物の存在は硫酸塩劣化を緩和する場合があることも知られており、海洋環境でのコンクリートの挙動を理解する上で重要な要素となっています。
マグネシウムイオンは、特に海水環境で問題となります。マグネシウムはブルーサイト(Mg(OH)2)を形成するとともに、CSHと反応してM-S-H(マグネシウムシリケート水和物)に変換します。M-S-Hは機械的強度が低いため、この変換はコンクリートの劣化につながります。しかし、適切な混和材の使用により、マグネシウムの侵入を防ぎ、耐久性を確保することができます。
最新の分析技術による水和物研究
見えないものを見る技術の進歩
セメント水和物の研究が飛躍的に進歩した背景には、分析技術の目覚ましい発展があります。かつては推測するしかなかった原子レベルの構造が、今では直接観察できるようになってきました。
固体核磁気共鳴(NMR)分光法は、水和物中の原子の化学的環境を調べる強力な手法です。²⁷Al-NMRを用いると、アルミニウム原子が4つの酸素に囲まれているか(4配位)、6つの酸素に囲まれているか(6配位)を区別できます。CSH中に取り込まれたアルミニウムは4配位を取り、エトリンガイトやAFm相中のアルミニウムは6配位を取ることから、各水和物の生成量を定量的に評価できます。同様に、²⁹Si-NMRではケイ酸の重合度を分析でき、未水和のセメント粒子(Q⁰)から、CSH中の鎖端(Q¹)や鎖中(Q²)のケイ酸四面体まで、詳細な構造情報が得られます。
放射光施設で得られる超高輝度X線を用いたin-situ(その場)測定は、水和反応をリアルタイムで追跡する画期的な技術です。わずか20秒という短い時間間隔でX線回折パターンを取得でき、エトリンガイトの針状結晶が成長していく様子や、モノサルフェートへの相変換が起こる瞬間を捉えることができます。さらに、回折ピークの微妙な変化から、エトリンガイトの組成が時間とともに変化していることも明らかになっています。
熱分析技術も水和物の定量に欠かせません。TG-DSC(熱重量-示差走査熱量測定)では、試料を徐々に加熱しながら重量変化と熱の出入りを測定します。50~200℃ではCSH、エトリンガイト、AFm相からの脱水が起こり、400~500℃ではポートランダイトが分解し、600~800℃では炭酸カルシウムが脱炭酸します。各温度領域での重量減少から、それぞれの水和物の含有量を正確に定量できます。
最も直接的な観察手法は、環境制御型電子顕微鏡です。通常の電子顕微鏡では真空中で観察するため水和物は脱水してしまいますが、環境制御型では水蒸気雰囲気を保ちながら観察できます。これにより、水和反応が進行する様子をナノメートルスケールで直接観察できるようになりました。エトリンガイトの針が伸びていく様子、CSHのシートが折り重なっていく過程、温度や湿度を変えた時の相変換など、まるで顕微鏡で生き物を観察するように、水和物の「生きた」姿を見ることができるのです。
これらの先端技術により得られた知見は、コンピュータシミュレーションと組み合わされ、水和反応の完全な理解へと近づいています。実験で観察された現象を理論的に説明し、さらに新しい予測を立てて実験で検証する。この繰り返しにより、セメント水和物の科学は日々進歩しています。
水和物制御による高性能コンクリートの開発
水和物設計という新しい考え方
現代のコンクリート技術では、単に強度を上げるだけでなく、使用目的に応じて水和物の組成を意図的にコントロールする「水和物設計」という考え方が重要になってきています。これは、料理で材料の配合を変えて味や食感を調整するように、セメントの水和物を制御してコンクリートの性能を最適化する技術です。
高強度を求める場合には、CSHの構造を緻密にすることが重要です。Ca/Si比を低くすることで、より密に詰まったCSH構造が形成され、強度が向上します。同時に、相対的に弱いポートランダイトの量を減らすため、ポゾラン材料を使用してポートランダイトをCSHに変換させます。このような制御により、圧縮強度が200MPaを超える超高強度コンクリートの製造が可能になっています。
一方、海洋構造物のように高い耐久性が求められる場合は、異なるアプローチが必要です。石灰石微粉末を添加してモノカーボアルミネートを安定的に形成させることで、塩化物イオンを固定する能力を高めることができます。また、硫酸塩に対する抵抗性を向上させるためには、セメント中のC3A量を制御し、膨張性のエトリンガイトの過剰な生成を防ぐことが重要です。
建築物の寸法安定性も重要な課題です。コンクリートは乾燥により収縮し、ひび割れの原因となりますが、適切な膨張材を使用してエトリンガイトを計画的に生成させることで、この収縮を補償できます。また、AFm相の水和状態を制御することで、湿度変化による体積変化を最小限に抑えることも可能になってきています。
混和材が生み出す新たな水和物の世界
各種混和材の添加は、水和物の組成と構造に劇的な変化をもたらします。フライアッシュは石炭火力発電所の副産物ですが、セメントに混合すると興味深い反応を示します。フライアッシュ中のシリカとアルミナがポートランダイトと反応し、追加のCSHとAFm相を生成します。この反応は遅いため初期強度は低下しますが、長期的には緻密な構造を形成し、100年を超える耐久性を実現することもあります。
高炉スラグは製鉄所の副産物で、急冷することでガラス質となります。このガラス質スラグがアルカリ環境で水和すると、通常のセメントでは見られないストラトリンガイトという特殊な水和物を形成します。ストラトリンガイトは層状構造を持ちながら、硫酸塩や炭酸塩の影響を受けにくいという優れた特性があり、海洋環境での使用に適しています。さらに、スラグから生成されるCSHは通常よりもCa/Si比が低く、より緻密で化学的に安定な構造となります。
シリカフュームは、シリコンや合金の製造時に発生する超微粒子で、粒径が0.1マイクロメートル程度と、セメント粒子の100分の1以下です。この超微粒子がセメント粒子間の隙間を埋めるとともに、高い反応性によりポートランダイトをほぼ完全に消費してCSHに変換します。結果として形成されるCSHは極めて低いCa/Si比を持ち、ナノレベルで緻密な構造を形成します。これにより、圧縮強度が通常のコンクリートの5倍以上となる超高強度コンクリートが実現されています。
最近注目されている石灰石微粉末は、単なる充填材ではなく、積極的に水和反応に参加することが分かってきました。石灰石中の炭酸カルシウムがアルミネート相と反応してモノカーボアルミネートを形成し、その過程で放出された硫酸イオンが追加のエトリンガイトを生成します。この「相乗効果」により、セメント量を減らしながらも強度を維持できるため、CO2排出量の削減に貢献しています。
環境負荷低減への貢献
低炭素社会に向けた水和物制御の挑戦
地球温暖化対策が急務となる中、セメント産業は世界のCO2排出量の約8%を占めており、その削減は避けて通れない課題です。しかし、単純にセメントの使用量を減らすだけでは、必要な強度や耐久性を確保できません。そこで重要となるのが、水和物の組成と構造を巧みに制御することで、少ないセメント量でも高い性能を発揮させる技術です。
最も直接的なアプローチは、セメントクリンカーの置換率を高めることです。現在の技術では、高炉スラグやフライアッシュなどの混和材を60%以上使用しても、適切な水和物制御により必要な強度を確保できるようになっています。キーポイントは、混和材から生成されるストラトリンガイトのような代替水和物を積極的に活用し、従来のCSH-ポートランダイト系とは異なる強度発現メカニズムを構築することです。
また、まったく新しいタイプのセメントの開発も進んでいます。カルシウムスルホアルミネート(CSA)セメントは、水和の主生成物がエトリンガイトとなる特殊なセメントです。製造時のCO2排出量が普通ポルトランドセメントの約半分でありながら、エトリンガイトの急速な形成により早期に高い強度を発現します。中国では既に年間数百万トンが生産されており、緊急補修工事や冬季施工などで活用されています。
さらに革新的なのは、CO2を積極的に固定化する技術です。従来、コンクリートの炭酸化は劣化現象として捉えられていましたが、最新の研究では、制御された条件下での炭酸化により強度が向上することが分かってきました。特定の水和物にCO2を反応させることで、炭酸カルシウムとシリカゲルを生成し、細孔を充填して緻密化を促進します。理論的には、この技術により製造時に排出したCO2の一部を再吸収する「カーボンネガティブコンクリート」の実現も夢ではありません。
将来展望:スマート水和物の設計
自己修復する生きたコンクリートへ
未来のコンクリートは、まるで生き物のように環境に応答し、自らを修復する能力を持つかもしれません。この夢のような技術の実現に向けて、世界中の研究者が挑戦を続けています。
その一つが、刺激応答型水和物の開発です。これは、ひび割れが発生してpHが変化したり、水が浸入したりすると、それを感知して特定の水和物が選択的に析出するシステムです。例えば、通常は安定なAFm相が、ひび割れ部の微環境変化により膨張性のエトリンガイトに変換され、ひび割れを内部から充填する。このような「スマート」な水和物システムの開発により、メンテナンスフリーの構造物が実現する可能性があります。
バイオミネラリゼーション技術も注目を集めています。特定の微生物をコンクリートに混入しておくと、ひび割れが発生して水と酸素が供給されると微生物が活性化し、炭酸カルシウムを生成してひび割れを修復します。また、酵素を利用して水和反応を促進したり、貝殻や骨のような生体鉱物の形成メカニズムを模倣した新しい水和物の合成も研究されています。自然界が数億年かけて最適化してきた鉱物形成プロセスから、私たちはまだ多くを学べるはずです。
ナノテクノロジーが拓く新たな可能性
ナノテクノロジーの進歩により、水和物を原子・分子レベルで設計することが可能になりつつあります。CSHナノ粒子やAFm/AFtナノ結晶を「種」として添加することで、水和反応の核形成サイトを制御し、より均一で緻密な構造を形成できます。これは、結晶成長を制御して半導体を製造する技術をセメント化学に応用したものです。
特に興味深いのは、AFm相の層状構造を利用した機能性材料の開発です。AFm相の層間には様々なアニオンを導入できるため、重金属イオンの固定、放射性物質の封じ込め、薬剤の徐放など、多様な機能を付与できる可能性があります。将来的には、環境浄化機能を持つコンクリートや、必要に応じて特定の物質を放出するインテリジェント材料の実現も期待されています。
また、量子コンピュータや機械学習の発展により、複雑な水和反応を原子レベルでシミュレーションし、最適な水和物組成を予測することも可能になってきています。数万個の原子の相互作用を計算し、温度や圧力、化学組成を変えた際の水和物の安定性や物性を予測する。このような計算材料科学のアプローチにより、実験では到達困難な条件での新規水和物の探索も進んでいます。
おわりに:複雑系の美しさ
セメントの水和反応は、単純な化学反応の集合ではなく、時間と空間で変化する複雑な系です。CSH、エトリンガイト、AFm相、ポートランダイトなど、多様な水和物が相互作用しながら、コンクリートという人工石を形成していきます。
これらの水和物は、ナノメートルからミリメートルまでの階層構造を形成し、それぞれが独自の役割を果たしています。エトリンガイトの針状結晶が初期強度を与え、CSHのナノシートが長期強度を支え、AFm相が有害イオンを固定し、ポートランダイトがpHを維持する。この精妙なバランスが、100年以上も持続する構造物を可能にしているのです。
さらに興味深いのは、これらの水和物が環境に応じて変化し続けることです。湿度変化によるAFm相の水和状態の変化、温度によるエトリンガイトの安定性の変化、外部イオンによる新たな相の形成など、セメント水和物は生きているかのように環境に応答します。
中高生の皆さんには、このような複雑で美しい化学の世界が、私たちの足元のコンクリートの中に広がっていることを知っていただければ幸いです。一見地味に見えるセメント化学ですが、そこには自然界に匹敵する複雑さと、人類の英知が詰まっています。
将来、この分野の研究に携わる人が現れ、より環境に優しく、より高性能なセメント系材料を開発し、持続可能な社会の構築に貢献してくれることを期待しています。セメント水和物の化学は、まだまだ多くの謎と可能性を秘めた、挑戦しがいのある研究分野なのです。
参考文献
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