CSH(カルシウムシリケート水和物、C–S–H)は、コンクリートの強さや耐久を決める主役でありながら、長らく「アモルファスっぽいゲル」として曖昧に扱われてきました。2010 年、Skinner らは X 線トータルスキャタリング(総散乱)+ペア分布関数(PDF)を用いて、CSH の局所構造は驚くほど秩序立ち、しかし遠くへ行くほど乱れが勝つという“二面性”を、数式とデータでくっきり可視化しました。結晶でも完全なガラスでもない――「ナノ結晶性」という言葉が、その後の CSH 議論に定着する決定打になった論文です。
なぜ「総散乱」なのか:結晶学の目盛りでは見えない領域
粉末 XRD は、整然とした長距離秩序(LRO)に敏感です。しかし CSH のように ナノサイズの秩序と厚い“乱れ”が混在 する物質では、回折線はにじみ、従来の解析では“見えない”部分が多すぎました。トータルスキャタリング は、回折(ブラッグピーク)と 散漫散乱 の両方を測り込み、PDF=原子—原子距離の分布 へフーリエ変換して 実空間の相関 を見る手法です。
PDF では、たとえば 1.6 Å 付近のピーク が Si–O、2.4 Å 付近 が Ca–O といった 具体的な結合 として現れ、数 nm までの秩序 がどこまで続くかがそのまま“見えます”。この“距離で語る視点”が、CSH を「曖昧なゲル」から 定量的な構造像へと引き上げました。
PRL 論文の核心:トバモライト様の近距離秩序+乱れた長距離
Skinner らは放射光高エネルギー X 線を用い、合成 CSH(I) と、水和トリカルシウムシリケート(C3S)中の CSH 成分を対象に総散乱を測定して PDF を解析しました。結論は明快で、近距離(数 Å〜数 nm)では トバモライトに似た層状モチーフ(シリケート鎖と Ca 配位)が支配し、一方で 中距離以降は特徴が急速に減衰 していく。
さらに彼らは、合成 CSH(I) に 直径 3.5(5) nm 程度のナノ結晶性秩序があること、そしてその局所構造が サイズ広がりを伴う 1.1 nm トバモライトの結晶構造と整合することを示しました。水和 C3S 中の CSH 成分も、基本的に CSH(I) によく似ている――これが「ナノ結晶性」という言葉を決定打にしたポイントです。
言い換えれば、“結晶の手触り”を持ちながら、少し離れると“ガラスのぼやけ”が勝つ――これが CSH の素顔です。以後の研究では、PDF の Si–O と Ca–O の相対強度 やピークの広がりを手掛かりに、Ca/Si の変化や時効による鎖の切れ方 が読み解かれるようになりました。総散乱は、“何に似ているか”の比喩 から“どの結合がどれだけあるか”の数字へと議論を一段引き上げたのです。
何が“それまで”と違ったのか:モデルとデータの橋渡し
PRL の発表時点で、CSH には T/J 混成(トバモライト/ジェンナイト参照)や コロイドモデル(グロビュールの凝集)、ナノ顆粒(nanogranular)力学 など複数の言語が並立していました。総散乱はその間に 共通の“翻訳機” を提供します。
近距離の PDF は 層状モチーフ(T/J)を裏づけ、ピークの減衰は グロビュールのサイズやタービュストラティック(層のずれ)を示唆し、広がり具合は 接触ネットワークの育ち(LD/HD の違い)と符合する。さらに、非乾燥で決まった CSH 固体密度(2007)や実在的原子モデル(2009)と数字合わせが可能になり、化学—物理—力学の三者が同じ定規 で会話できるようになりました。
研究・実務への効き目:指標が“測れる”ようになった
大づかみに見れば、PDF から得られる 二つの実用的な示唆 が重要です。
第一に、近距離秩序の保ち方 は配合と養生に敏感です。若材齢の湿潤・内部養生 は鎖の切断や通路の急激な開閉を抑え、ピークの幅(=乱れ)を小さく保つ方向に働きます。急激な乾燥や加熱は逆に乱れを増やし、等温線のヒステリシスや不可逆収縮と響き合います。
第二に、Ca/Si の移動 が PDF の Si–O と Ca–O の相対強度 に映るため、混和材の置換や Na/Mg/Al などの取り込み が 骨格のどこを揺らすのか を、同一バッチの比較で読み出せます。これは 熱力学モデリング が描く相平衡や 29Si MAS NMR が示す鎖長の変化と突き合わせるのに最適です。“複式簿記”の一角として PDF を置く発想が、ここから定着しました。
一般読者の直観:すりガラスの“触感”
すりガラスは 表面近く では確かな手触り(秩序)がありますが、遠く を見ると像がぼやけます。CSH も同じ。手元の数ナノメートル は トバモライトの手触り があり、そこから先は 乱れ が支配する。だからこそ 強さ と 柔らぎ を同時に持ち、水やイオン にも応答できる。総散乱は、この“触感”を 距離の関数 として測りとり、設計や診断が使える言葉 に置き換えました。
その後の展開:定性的から“定量 PDF”へ
2011 年以降、PDF は レビューと実験作法の整理 を経て、定量解析(クォンティタティブ PDF)へ進化します。Ca/Si の上昇で Si の橋かけ四面体が系統的に抜ける、短時間では“層状の筋”が 2 nm 程度まで、長期ではやや延びる、高い Ca/Si では CH(ポルトランダイト)の寄与が現れる――といった“流儀の一致”が積み上がりました。炭酸化や塩害のその場観察(in situ PDF)も登場し、「劣化が何をどこから壊すのか」が距離ごとに語れるようになります。
この流れは、原子モデルの検証や機械学習の特徴量設計 にも波及し、PDF のピーク強度や減衰長 が 構造指標 として使われる時代へとつながります。
まとめ
2010 年の PRL は、CSH を“距離”で語るための基準点 を与えました。近距離は秩序、長距離は乱れ――この一行が、T/J 混成・コロイド・ナノ顆粒・原子モデル・熱力学を 同じ紙面 にのせ、以後の 定量 PDF・その場測定 を加速させたのです。
次回は 2011|Scrivener–Nonat:水和メカニズム総説 に寄り道し、装置・化学・速度論の“共通語”を押さえたうえで、2013–2017 年の定量 PDF と C–S–H 鎖の議論 へと踏み込みます。
参考文献
- Skinner, L. B., Chae, S. R., Benmore, C. J., Wenk, H.-R., & Monteiro, P. J. M. (2010). Nanostructure of calcium silicate hydrates in cements. Physical Review Letters, 104(19), 195502. doi:10.1103/PhysRevLett.104.195502
- Meral, C., Benmore, C. J., & Monteiro, P. J. M. (2011). The study of disorder and nanocrystallinity in C–S–H, supplementary cementitious materials and geopolymers using pair distribution function analysis. Cement and Concrete Research, 41(7), 696–710. doi:10.1016/j.cemconres.2011.03.027
- Grangeon, S., Fernandez-Martinez, A., Baronnet, A., et al. (2017). Quantitative X-ray pair distribution function analysis of nanocrystalline calcium silicate hydrates: a contribution to the understanding of cement chemistry. Journal of Applied Crystallography, 50(1), 14–21. doi:10.1107/S1600576716017404
- Scrivener, K. L., & Nonat, A. (2011). Hydration of cementitious materials, present and future. Cement and Concrete Research, 41(7), 651–665. doi:10.1016/j.cemconres.2011.03.026


