シリーズ第6回は、19世紀末の研究者たちが手にしていたのは素朴な秤とレンズ、そして実験ノートだった――という視点から始めます。CSHという語が定着する以前、彼らは「何を観察し」「どう記録し」「どの差を比べるか」を磨き上げて、セメントが固まる理由に近づきました。本稿では、その“段取りの知恵”を、今日研究を始める学生にも役立つ形に焼き直します。一般向け7、研究者向け3のバランスで、現象から仮説、実験、記録、解釈までを一つの流れとして描きます。
1. 入口は「描写」から――わかる言葉で現象を整える
研究は、難しい用語を並べる前に描写の精度を上げることから始まります。練り始めの手触り、時間とともに変わる粘り、表面の光沢、角の“面落ち”、発熱で指先に伝わる温かさ。これらは主観に見えて、再現可能な描写のテンプレートを作れば客観に近づきます。たとえば、「練上がり後○分、表面が艶消しに転じた」「針入度が○mmを切った」といった時刻の印を置く。語り口を整えるほど、後の数値(質量、温度、長さ)と自然につながります。**“言葉で測る”**ことは、のちに“数字で測る”ことを支える基礎工事です。
2. 仮説は「差」で立てる――何を変え、何を固定するか
19世紀末の実験ノートは、要因を一つだけ動かす構成が徹底していました。水と粉の比率、粉砕の程度、養生の方法、温度、混練の強さ。いずれも結果を左右しますが、同時に二つ以上を動かすと責任の所在が曖昧になります。したがって仮説の形はつねに**「A を増やすと、B がこう変わる」です。
この“差”の考え方は、CSHという言葉がなくとも有効でした。たとえば「水が少ないほど早く硬く、早く縮む」という観察が積み上がれば、やがて生成物量と空隙のバランスという、いま私たちが語るフレームに自然と接続していきます。大切なのは、固定した条件を明記し、差を作った要因だけを大きな文字**でノートに残すことです。
3. 試料を“整える”という研究――前処理と標準の感覚
当時の研究者は、試料調製そのものを研究として扱いました。粉をどのふるいでそろえるか、混練後に何分で成形するか、何℃・どの湿り気で養生するか。こうした「前処理」の違いは、のちに顕微鏡や散乱法で見える微細構造を大きく揺らします。乾燥や溶媒置換が見えないダメージを生むことも古くから警戒され、“測るための準備”が実は最大の実験だという自覚が共有されていました。
現代の装置を手にした私たちも、この感覚を忘れがちです。前処理を一段上の見出しにし、変えたら必ずノートの冒頭に書く。そう決めるだけで、後からの比較が一気に明快になります。
4. “時刻”で追うという技法――誘導期から立ち上がりへ
硬化現象は時間の物語です。混和直後の休むような静けさ、やがて訪れる急な立ち上がり、そして徐々に落ち着いていく熱の尾。19世紀の研究者は、時刻を基準に同じ試料を繰り返し観察し、一つの試料の中での変化を追いました。
この「同一試料・時間追跡」の姿勢は、今日の時間分解観察やカロリメトリーにも通じます。最初の数時間で何が起きたかを具体的に言えるノートは、数日・数週間後の強度や収縮の説明を時間軸でつなげることができます。“何時何分に何を見たか”――この一行が、議論を強くします。
5. 顕微鏡は「見る前に信じない」――アーティファクトとの付き合い方
早い時代から、薄片や破断面の観察は研究の中心でした。しかし、乾燥でゲル水が抜ける、切断で微小ひびが入る、といったアーティファクトは避けられません。だからこそ、同じ場所を異なる方法で確認する態度が磨かれました。たとえば、表面観察で見えた“膜状の何か”を、別の試料では樹脂包埋してから切ってみる。観察の都度、前処理の違いをノートの余白に大きく書く。
この慎重さは、今日の小角散乱、吸着等温線、NMRといった間接法の読み方にも応用できます。**“見え方は方法に依存する”**という一行をノートの表紙に書いておきましょう。
6. 「比べる」の作法――一つの図で二つの世界を並べる
良い実験ノートは、図が比較の器になっています。たとえば、同配合で封緘と乾燥の二条件を揃え、長さ変化と質量変化を同じ横軸(時間)に重ねる。これだけで、化学収縮・自己収縮・乾燥収縮という三つの顔が一枚の図で語れるようになります。
顕微鏡でも同じです。倍率を固定し、視野のサイズを明記して、養生条件だけを変えた二枚を上下に置く。レンズの時代も今も、比較は“並べる場所”から始まるのです。
7. 不確かさと向き合う――“ばらつき”を敵にしない
材料実験はばらつきと共存します。19世紀の実験者たちは、繰り返し回数を増やせない代わりに、試料内の変動を丁寧に観察しました。たとえば、同一バッチ内の個々の試験体に通し番号を付け、番号ごとに結果の癖を追う。数字の平均は心強いが、個体差の物語を捨てない――この態度は、今日の統計処理のうえでも有効です。
現代なら、測定の繰り返しと図のエラーバーを惜しまないこと。ばらつきが何に由来するのかを仮説として書き添え、次の実験でつぶしていく。その連続が、研究の速度になります。
8. 用語は“あとから”揃える――概念は観察に奉仕する
CSH、ゲル孔、層間水――私たちが使う語彙は豊富です。しかし、言葉が先に立つと、観察が語彙に引きずられることがあります。19世紀のノートは、先に描写と比較を積み上げ、あとから概念を当てはめる点で一貫していました。
この順番を守ると、異なる手法・異なるスケールの結果が同じ地図に載ります。結果として、CSHを**“ナノ粒子の集合体”**として理解する現代の枠組みにも、自然とつながっていきます。
9. 失敗は“設計図”になる――否定結果の価値
固まらなかった、ひびが入った、観察像が荒れた――こうした否定結果は、次の実験の設計図です。なぜ失敗したのかを前処理・時間・環境の三点に分けて書くと、次に手を打つ場所が見えます。否定結果は公開しづらいものですが、ノートには等身大で記録しましょう。研究の速度を上げる近道は、同じ失敗を二度しないことに尽きます。
10. 研究を始める人への“最小セット”
今日これから研究を始めるなら、まず最小の計画を作ります。配合(粉・水・混合順序)と養生(温度・湿度)を紙一枚にまとめ、時刻の印を置く。測る量は質量・長さ・温度の三つで十分です。顕微鏡や散乱装置が手元になくても、同一試料の時間追跡と条件を1つだけ変えた比較で、硬化の物語は見えてきます。
装置が増えたときは、まず前処理の標準化から始めてください。乾燥や溶媒置換の条件、切断や研磨の方法。これらを文章ではなく図とチェックリストにし、研究室全員で共有する。19世紀のノートの精神は、ここに生きています。
11. 結び――ノートという実験器具
CSHという言葉がなかった時代でも、研究は進みました。支えたのは、描写→仮説→実験→比較→解釈という順番と、それを裏打ちする実験ノートです。ノートは単なる記録ではなく、再現性という装置。今も昔も、ここに研究の芯があります。
次回は、こうして磨かれた“差の作り方”が、水とセメントの量の関係(w/c)と空隙の理解へどうつながったのかをたどります。
次回予告(#7):水とセメントの関係を数で読む――w/c と空隙の時代(1900–1945)。
参考文献
- Stutzman, P. E. (2012). Microscopy of Clinker and Hydraulic Cements. Reviews in Mineralogy and Geochemistry, 74(1), 101–146. https://doi.org/10.2138/rmg.2012.74.3 NIST
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